平安の昔から、鮭と共に歩んできた街・村上市

新潟県村上市の名物といえば、誰もが三面川の「鮭」と即答できるほど有名です。
市民一人当たりの鮭消費量が日本一であるなど、鮭との関わりが深いこの地域では、伝統の「塩引き鮭」をはじめ、味噌漬け、焼き漬け、粕漬けほか100種類を超える調理法が受け継がれています。数々の郷土料理も鮭尽くしであり、身はもちろん、頭・内蔵・皮や中骨に至るまで、捨てることなく使い切ります。

村上市と鮭の付き合いは先史にまで遡ります。旧三面集落には旧石器時代から古墳時代の遺跡が見つかっており、そこには人々が鮭や鱒を食べていた痕跡があったそうです。

また、平安時代中期に編纂された『延喜式(えんぎしき)』に越後国から朝廷へ鮭を献上していた記録があり、1165年、越後国司から出された「国宣」の起案文書には、信濃・越後・越中の鮭が朝廷に貢納されたという記述が残っています。どうやら、当時の鮭はあくまで献上品であり、上流階級にしか手に入らなかったようです。

鎌倉時代~安土桃山時代において、三面川の鮭についての記録はまったく残っておらず、次に歴史の表舞台に現れるのは江戸時代のこと。村上藩の鮭は江戸幕府にも献上されていたようで、1619年、村上藩主・堀直寄(ほり なおより)が、領内で鮭の稚魚を勝手に捕獲することを禁じる制令を出しています。その後、1700年代に入ると、村上藩は三面川における漁業権を公売し、運上金を得るようになります。このことから、江戸時代の鮭は村上藩の重要な収入源だったことがうかがえます。

また、食糧が不足する年には、保存のきく鮭が人々の貴重な食糧だったといいます。そのため村上の人々は、故郷を潤し、暮らしを支えて続けた鮭を今も大切にしているのです。

世界に先駆けて鮭の増産を行ったのは「村上藩士」

鮭のおかげで財源を確保してきた村上藩でしたが、ある時ピンチに見舞われます。漁業技術の発達による乱獲などで、鮭の数が減ってしまったのです。以前は300両にも上った運上金が、藩主・内藤信興(ないとう のぶおき)の時代には、たった5両、時にはまったく入らないことがありました。

藩の上役たちが頭を抱える中、藩の窮地を救ったのが、下級武士の青砥武平治(あおと ぶへいじ)です。河川工事に携わっていた武平治は鮭の生態も研究しており、生まれ育った川に帰ってくる「回帰性」が備わっていることに気づいていました。この習性を利用し、鮭の子どもを育て、増殖することを信興に上申したのです。

武平治の考えは、川に本流と分流を設け、本流では今まで通りに漁を行い、分流は産卵が終了するまで漁をしないというものでした。その後、産卵を確認したら、運上金を支払った漁師に鮭漁の許可を出したのです。武平治の作った分流は「種川」と呼ばれ、村上藩ではこれを制度化しました。武平治は三両二人扶持の身分から70石取りに出世します。1762年、種川が実施されると鮭は次第に増え、1767年には運上金が約40両になり、また1796年には1000両を超すようになりました。武平治の工夫は、小藩だった村上藩の懐を大いに潤したのです。

種川が育てたのは鮭だけではなかった!?

種川制度は明治になってからも続けられ、1878年、アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。1882年には「村上鮭産育所」が設立されました。鮭の遡上数も増加し、1884年は73万7378尾を記録。これは、単一河川では日本の最高記録になっています。

なお、村上鮭産育所はサケで得た資金でさまざまな事業を行いました。中でも有名なのは、奨学資金の設立でしょう。奨学金を受けた人たちは「鮭の子(さけのこ)」と呼ばれ、日露戦争で知られる、乃木大将の通訳を務めた川上俊彦(かわかみとしつね・元日魯漁業社長)ほか優秀な人材となり、明治・大正・昭和の日本に貢献したのです。

食をはじめとする地元の文化を養い、社会貢献にも一役勝った「鮭」は村上の誇りといっても過言ではありません。日本で最初の鮭の博物館「イヨボヤ会館」、多くの鮭料理店・鮭を加工する企業など、村上市には今も鮭の文化が息づいています。にいがた就職応援団CAREERでは、村上市はもとより、新潟県のあらゆる魅力を紹介していきます。