田中角栄の生い立ち

当時鎖国のようであった新潟や日本海側の地域に、道路網を作り都会との格差をなくすように取り組んだのが田中角栄だったと言われています。
彼は新潟出身で、日本の道路の普及に熱心に取り組んだ政治家でした。

そんな彼ですが、生い立ちは決して華々しいものではなく、幼少の時代は苦労もあったと言います。新潟での生い立ちについて少し見ていきましょう。

極貧の生活だった田中角栄

幼い時に父の事業が失敗し極貧の幼少時代を送っていた彼は、成績優秀だったにも関わらず、学費が工面できなかったため、中学卒業後すぐに働き出しました。

15歳で上京し土建会社に住み込みで働き始め、その後持ち前の野心と行動力で実業家として独立。そこで出会った政治家の勧めで政界を目指し、1947年で初当選しました。

東京宅と新潟宅の都市伝説

彼は政治活動のために新潟と東京を往復する生活をしていました。
道路の開発に熱心で開発に携わっていたことがあってか、新潟の自宅と東京宅を結ぶ道路はわずか3回曲がるだけ、という都市伝説があり、実際に検証した人もいたほどです。

東京と新潟を行き来しやすくするために分かりやすい道にしたのでしょうか?
真相は謎ですが、彼ならできそうだと思えるところが、さすがですね。

新潟に光を与えた田中角栄

かつて閉ざされた地であった新潟に、東京とつながる上越新幹線を作ったのは彼です

彼は率先して上越新幹線を作ることに情熱を費やしましたが、地元びいきだという見方をされたり、自分の地元に新幹線や交通網を建設したがる議員が出てきたことから、やや批判的に揶揄されることもありました。しかし、彼は私利私欲だけで取り組んでいたわけではありませんでした。

「全国新幹線」という考え方

彼は全国新幹線という言葉をよく使いました。これは決して新潟のみに焦点をあてているのではなく、新幹線を作ることで全国的な過疎の解消を目指していたのです。

その時代は特に、東京などの都会と田舎との格差が目立ってきていました。
彼は新幹線を作ることで地域の活性を図れると信じ、その格差を解消しようとしていたのです。

このように新潟の活性化にも貢献したことから、彼の悪口を言う新潟県民のお年寄りはほとんどいません。
しかしその一方で、新幹線を作ることで東京への一極集中化の促進となったのではないか、と議論されているのも事実です。

ですが、どちらかといえば彼の想いは素晴らしいものであり、新潟と東京へつながる希望を創り出したのは多大な貢献……そう感じる人が多いのではないでしょうか。

参考:【来た!見た!書いた!】新幹線50年に考える田中角栄と列島改造