河井継之助という人物

幕末時代に活躍した武将は、坂本龍馬や西郷隆盛が有名ですが、新潟で活躍した武将に、河井継之助という人物がいます。ご存知でしょうか。

河井継之助は、現在の新潟県長岡市にあたる長岡藩を統治し、優れた行政手腕を発揮し庶民の生活を豊かにしました。それだけではなく、今に言い伝えられるさまざまな興味深いエピソードを残した人物です。

河井継之助の生い立ちや取り組み

河井継之助は生まれはさほどよい家柄ではなかったため、自分で日本の各地を回りながら勉強し、知識を蓄えたと言われています。長崎では開国論を学び、長岡での藩政改革にも知識を役立てました。

そんな中、戊辰戦争が起こり、河井継之助が統治する長岡藩は新政府につくか、会津藩につくかしか選択肢のない状況となります。 しかし河井継之助の手腕はここで発揮されます。こんな戦の中の最中であっても、元々「武装中立」を目指していた長岡藩の立場を貫こうとするのです。

これには「日本の国内で争っても、外国が攻めてきたら対応できない」という広い見解があったようですね。 さらに言い伝えられるエピソードは、藩政改革で余剰金をきちんと蓄えていたので、武装中立のための強力な武器を購入することができました。日本に数台しかないガトリング砲やアームストロング砲といった武器です。河井継之助は自らこれらの武器を操り戦に交戦したと言われています。

最期まで残る河井継之助のエピソード

長岡藩は武装中立を保ちつつも、攻めてくる新政府軍と対峙しました。一旦長岡城は奪われますが、それを取り戻すために河井継之助率いる一軍は戦います。しかし、河井継之助はここで左足を負傷し破傷風を患い、命を引き取ってしまうことになるのです。

新政府軍にやられ、撤退する途中である福島・会津で最期の時を迎えますが、この時、河井継之助はエピソードを残しています。 それは遺言として、自分の従者であった外山寅太に「今後は身分制度がなくなるから、武士より商人になって財力を蓄えるように」と残したそうです。

外山はこの遺言通りに進み、慶應義塾大学で学び知識を蓄え、明治になってからアサヒビール、阪神電鉄などの会社の創業に携わる経済界の重鎮となります。 また、この外山は阪神タイガースの生みの親と言われているんです。

阪神タイガースの名は公募で決められたそうですが、阪神電鉄初代社長・外山寅太の「寅」が選考者の頭に浮かんだのではないか、という都市伝説があります。 河井継之助の偉大さは、このような時代の変わり目を察知し、死後に残る後輩を育て上げた先見の明にもあるのではないでしょうか。